無明庵晩年の知人への謝罪には大変嫌な気分になったわけだが、それを一種の美質や美学と解釈する人はいるだろうし、文体的にも鬱の人が書きそうなことでなるほど嘘はない(思想性の無という意味で)が、また道元の晩年よりはまし(良くも悪くも)のようにも見えるのだが、意味内容としてはそのような受容を理解したうえで読者を振り回すといういつもの(老いて錯乱したくらいで人間そうそう手癖を失うものではない)なので、なんらの批評性は見出せず、結果として20世紀精神世間の縮小版の、あるいは90-10年代的インターネット的自我の、歪さばかりを残したという印象がある。そのようなものとして氏と、氏の理論を理解する必要がある。つまるところ、それは反思想的なムーブメントのひとつ、いわゆる「何か」なのであった。